極刑 

スコット・トゥローといえば、映画「推定無罪 [DVD]」の原作者。
何気なく本棚を覗くと、ノン・フィクションの棚にこんな本。ミステリーではないのだ。

極刑 死刑をめぐる一法律家の思索

極刑 死刑をめぐる一法律家の思索

著者は元検事でもあり、今は小説業の傍ら今は関心を持った事件の弁護士として働いているようだ。
これは、彼がイリノイ州知事ジョージ・ライアンから死刑諮問委員会のメンバーに指名され、当初は死刑容認主義者であった彼が調査と議論を通して死刑反対論者に傾いていく軌跡を記した本である。

死刑というものの是非を考えたとき、トゥローの死刑に対する葛藤は随分と常識的なものと思える。
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>>死刑が実際に正しく、賢明なのかという疑問に対してどちらの側に立つこともできず一種の道徳的なバランスの狭間で躊躇していた。…「殺人が悪なら、州政府も人を殺すべきではない」というシンプルな法則は、いつも、その言葉通りに胸を打ったが、人間の行為の複雑さに対してみれば、余りにも単純すぎる…一方で、私は、死刑制度で何のよいことが生じるのかを説明することもできずにいた。<<

当初このように態度をはっきりさせられないトゥローが死刑廃止論に傾いていくのは、本当に凶悪で矯正させようもない殺人者に対する死刑が非倫理的、であるからではない。

>>今後も、常に極刑の必要性を大いに求めて叫ぶケースが現れることだろう。しかし、それは本当の問題ではないのだ。…無実の者や死刑に値しない者に刑を科してしまうことなく、非常にまれな死刑にふさわしいケースを適正に取り扱う司法制度を構築することが可能であろうか、ということである。<<

このように司法制度が果たして死刑を的確に適用できるか、という疑問を呈し、同じ複数殺人であっても一方は死刑で一方は終身刑といった判決が下ることを記した上で次のように続ける。

>>未だに我々は道徳的混乱の中にあるのだ。…死刑制度を維持すると、法の欠点をあまりに多くさらけ出してしまうため、かえって法軽視を増長させる道へとつながっていくように思われることである。<<

死刑がふさわしいような事件になると、司法に携わるものの理性的判断を曇らされ、現行司法制度の中では冤罪可能性が生まれてしまう、そのことが法律家であるトゥローにとって耐え難いことであるように読めた。


私個人は死刑に反対。主に2つの理由による。1つは、犯罪者と同じことを国がやるということが醜悪に感じられてならないこと。もう1つは冤罪可能性。もちろん「極刑」の中でトゥローはこれらの問題に対して十分な考察を述べているが、事実として死刑でない人がどれだけ沢山死刑を宣告されているかは読んでいて寒気を生じるものである。それは、アメリカでの話、と割り切るのは簡単だが、日本でも裁判員制度が始まるし、一度は考えてみる問題だと思う。目の前の被告が有罪であると判断することが、究極刑として死刑を宣告するにふさわしい場面に立ち会う可能性が出てくるのだから。